メッセージ集

 牧師によるメッセージを掲載しています。
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2018年5月27日 三位一体主日ロマ8:14ー17、ヨハネ3:1ー12
説教題:「新しく生まれる」  説教者:福田 学 牧師

 クリスチャンにとって洗礼を受けることは、この世に新しく生まれかわることです。現実に同じ肉体を持ちながらも、魂は自分の罪から救われ、霊的に新しいものとされ、神様から精霊を頂き、自分の中にイエス様が来てくださいます。
このことについて、今日のヨハネの福音書3:1-5では、ニコデモとのことがでてきます、ニコデモは敬虔な人で、イエス様が神の人であることも知っていましたが、イエス様の言葉にビモンを抱きます。なぜなら、彼は人が生まれかわることは不可能なことだと考えていたからです。しかし、ヨハネ3:6-8でイエス様が言われるように、生まれ変わりとは肉体のことではなく霊による生まれ変わりです。イエス様が「霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と言われるのは、霊が新しく自分の中に入り、すっかり新しい霊的な存在となったということです。
イエス様の言葉は人にとっては不思議であっても、イエス様や弟子たちが「知っていることを語り、見たことを証ししているのに・・」と言われているとおりです。
ただイエス様や弟子たちは、真実を語っているだけです。
私達も時代と場所は変わっても、そのような状況に出会うことが確かにあります。どんなに私達にとって当たり前のことを語っても、人はそれを受け入れないのです。しかし、そこに精霊のお力が働いてくださることを、私達は祈りつつ福音を語り、証ししなければならないことは当然です。

生まれ変わった者は、ロマ書8:14-17にいうように、神の子となります。
それで、私達は神様を父なる神様と呼べるのです、そこにおいて私達は神様にすべてをお任せしながら、自分自身の与えられたものを発揮し、神様の導きに従って生きることができるのです。そうできるということは、神様からの一方的な罪の赦しによるものです。
イザヤ書6:5-8で言うように、私達は滅ぼされるべき者である、汚れた唇のものであるわけですが、父なる神様がイエス様の十字架の償いを通して、この人間の罪を赦してくださいます。
この私達も、赦しを受けて新しく生きられます。それが、イエス様の十字架に対する信仰であり、洗礼を受けて罪の赦しを得ることです。この罪の赦しは、人の力、自分の力で得られるものではなく、神様からの一方的な赦しによることです。
ニコデモはそのことを理解していませんでしたが、私達はすでにそのことを教えられています。ですから、この罪の赦しと大きな恵みを頂いて生きる幸いを周囲の方々に証しながら、日々の生活を、神様の導きを祈り求めながら生きていくのです。


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2018年4月8日 復活後第1主日Ⅰヨハネ5:1-5、マルコ16:9-18
説教題:「信じて祝福に与る」  説教者:福田 学 牧師

 科学的に認められた事実は、証拠によって厳然たる事実であると認定されていることです。一方で、神様の存在は、科学的に証明できるものではなく、それは信仰によります。
信仰には証明も証拠もいりません。なぜなら、信仰は、人間存在の意味と宇宙のすべての存在の意味を教えてくれるものだからです。科学は事実を調べ証拠を探しますが、意味は神さまが啓示して下さるものです。ですから、キリスト教は科学のどんな分野とも全く衝突するものではありません。そして、私たちが神様のことを信じることについて十分な証拠があると言っていいのです。それは聖書という御言葉からわかる確実な神様の愛があるからです。
聖書には、数千年前から神さまの救いの啓示が記され、ついにイエス・キリストの十字架の贖いと復活において成就しました。すべてが、人間に対する神さまの愛で貫かれています。

 しかし、福音書によると、弟子たちは初めはイエス様の復活を信じませんでした。直接、イエス様に出会った弟子たちは信じますが、他の弟子たちはその証言を信じません。これを考えれば、私たちのような弱いものが、聖書に記されたイエス様の贖いと復活を信じることは、確かに難しいことです。でも、それでも信じることができます。なぜなら、神さまの愛に応えて、私たちは、神様を愛することができるからです。
Ⅰヨハネ5:1で言うように、私たちは、神様に愛されていますから、イエス様をメシア、救い主であると信じる人は、神様から生まれた人、すなわち、神様の子どもであり、そうであれば、その人は神様を愛し神様から生まれた人、すなわち、すべての人々を愛することができるはずだからです。それは隣人を愛するということです。
信仰は、父なる神様を愛し、イエス様を愛することです。また、その愛は人々に及ぶのです。すでに、私たちは救われて、聖書においてすべてを知っています。神様は、私たちを祝福して下さっています。そして、その信仰において、神様から救いの恵みをすべての人々に差し出してくださっているのです。
イエス様がこの地上に来られ、その身を持って私たちをその罪から救い出してくださったこと、それは、すべての人々が祝福に与ることだったのです。そこにおいて、神様は、私たちが出合う人生の様々な障害を乗り越えさせてくださるに違いありません。これらがすべてにおいて最大、最高の恵みということです。そして、その上で、永遠の命の約束という最高の希望があります。このことを心にとめて、日々の生活を生きていきましょう。

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2018年3月25日枝の主日フィリピ2:6-11、マルコ11:1-11
説教題:「ほどいて連れて行く」 説教者:福田 学 牧師

 人間は、オリンピックのような晴れの舞台でなくても、日常の生活の中で、その素晴らしさを発揮することがあります。でも、それは目だたないことの方が多いのです。なぜなら、私たちは、日々の平凡な生活を必死にしている者だからです。この日常の中でおこなわれる愛のある言動こそ大変大きなことです。そして、どこにでもいる普通の人を神さま
は使われます。

 今日のマルコ11:1-4では、イエス様は、これからどうすればよいのかを弟子に全部お話しして下さいます。弟子のすべき行動は、見える形としては、ただ、どこそこに子ロバがいるから連れてきなさいと、イエス様の言われるままにすることです。ただ違うことは、その行動のもとはイエス様の言葉であり、その行動で聖書に記されている預言が成就していくことです。つまり、私達も信仰においては、日常的な普通の行動であっても、イエス様の御言葉に従って歩んでいく時、御言葉が私たちを導いてくださるということを心に留めなければなりません。
つまり、私たちの信仰において、私たちはイエス様の弟子となっており、私たちがどのように歩めばよいのかが示されています。私たちは日々、自分の人生を自由に歩むことができますが、それは、神さまの導きに従って歩むことができるということです。もちろん、そうしないこともできますが、信仰においてこそ、神さまの御言葉に従う生き方ができます。神さまに従っていく、それが本当の自由に生きる道です。
どんなことが神さまの導いておられることか、一つ一つ私たちが判断することは難しいことですが、神様を愛し隣人を愛することは、日常の生活を大切にして丁寧に生きていくことです。その最終地点は天のみ国です。

 イエス様の歩みは十字架の死に向かう歩みでした。フィリピ2:6-11にあるように、イエス様は、へりくだって十字架の死に至るまで父なる神様に従順でした。だからこそ、神様はあらゆる名にまさる名を与えられたと言います。それは、ある意味で私達も同じです。苦しいことの方が多いでしょう。
しかし、イエス様と同じにへりくだって主のために生きるとき、主と共に生きる幸いがあたえられます。小さな日々の生活を大切にして人を愛して生きるとき、イエス様が共に歩んでくださる幸いを知ります。私たちはイエス様の大きな犠牲で救われました。私たちの
払う犠牲は小さなことかもしれませんが、日々、イエス様のご受難を覚え、イエス様の苦しみを心にとめて痛みを覚えつつ主と共に歩むのです。そのように生きることを目指しましょう。

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2018年3月18日四旬節第5主日エフェソ3:14-21、ヨハネ12:36b-50
説教題:「言葉を受け入れない者」 説教者:福田 学 師

私達が誰かの言葉を受け入れるということは、言葉の力を受け入れることです。
イエス様の言葉は、私達にとって最も大切で、最も大きな影響力を持つ言葉であることはいうまでもありません。その力は、エフェソの手紙3:17ー20でいうように、人の心の内にキリストを住まわせ、愛に根ざした生き方ができるようになります。その力は、はるかに人知を超えたものだということです。

私達は、日常の小さなことにばかり目を向け、心配するものですが、イエス様は、ヨハネ12:44で「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。」と言われます。
これは、まさに、父なる神様そのものを信じることであり、その言葉はすべてに大きな力を持つのです。しかし、そこには問題があります。すべての人が神様を信じるわけではないからです。
ヨハネ12:36ー40にあるように、当時ユダヤ人の間で、どんなにイエス様が語り奇蹟のしるしを行われても、信じないものは数多くいました。そして、その状況は、旧約聖書のイザヤに語られた予言の成就でありました。それらは、人々の罪からの救いが起こるための必要な道筋であったのです。
そこで、ヨハネの福音書12:47ー48でイエス様は言われます。聞いて守られないものがいても裁かれないと言われます。イエス様の言葉を聞くことは誰でもしますが、その言葉を守ることは信仰があるかどうかにかかります。その言葉を守らない罪をも含めて、罪からの救いの目的で来られたのが、イエス様です。一行で、神様の方から与えてくださる救いを拒み、捨ててしまうのならば、イエス様も救いようがないのです。

また、ヨハネ12:43にあるように、信じる者が多くいても、彼らは神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好みました。このことは、今の私達にもよくあることです。
ですから、絶対的に重要なkとおは神様についてのことであり、聖書の御言葉を受け入れることが、大切なことです。
私達は、人間としての誉れも尊重はせねばなりませんが、その優先順位が逆転してはいけません。父なる神様の御命令は、人が永遠の命を得るように生きていくことであり、また、それが人の誉れそのものだからです。そして、それに向かってすべてが動いていくのです。そこで、私達は、すべてにおいて愛に根ざした生き方ができます。
それは、常に私達の中にイエス様がおられ、共に生き、導き支えてくださっているからです。それが、御言葉を受け入れて生きていくことです。


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2018年3月11日四旬節第4主日エフェソ2:4-10、ヨハネ3:13-21
説教題:「真理を行う者」 説教者:福田 学 師

真理とはいったいなんでしょうか。古今東西の人々がそれを探してきました。
しかし、この世界そのものからはわかりません。
この世界をお造りになった神様の存在を知ることができても、この世界は、人間の思考をはるかに超えた大きさですから、人間がその意味を知ることはできません。それこそ、聖書に記されていることです。
ヨハネの福音書3:16にあるように、神様がこの世を愛されています。これが一番大切な真理です。

そして、さらに、なぜ神様が御子であるイエスさまをこの世に派遣されたのかが示されます。それは、神様が私達を愛するからこそ、私達をお救いになろうとされたのです。
ヨハネ3:17-20で、まず、イエス様がこの世に来られたのは、世を裁くためではないと言います。
ですから、救いは、イエス様を信じる者に与えられます。そして、信じない者はすでに裁かれていると言います。それは、自分から地獄の中に飛び込んでしまっているということです。

しかし、だからといって、罪を犯した皆が神様から捨てられているわけではなく、3:16で言うように、信じる者が永遠の命を得ることができるのです。
そして、真理を行う者も光の方に来るとなります。しれは、その真理の行いが神様に導かれているからこそです。

でも、私達は、常に心の中に葛藤があります。いつも善と悪のはざまにグラグラしている者ですが、神様は私達の羅針盤となってくださり、ふらふらしている私達の位置を教えてくださり、また、私達の行く先を教えてくださいます。
その行先は真理であり、永遠の命です。ですから、私達がどうすればよいのかといえば、その神様に従って行くことです。でも、これはなかなかできることではなく、常に葛藤があります。すでに洗礼を受け、救われていても、その葛藤はなくなりません。
しかし、以前と同じで、良い方向に行けない者であるかといえば、そうではなく、イエス様の導きに従って行く、その勇気と決断が私達には備えられているのです。

そのように神様に従うkとは、私達にはほとんど何もできないことを認め、私達を救ってくださったのは、神様からの慈しみであり、恵みであったということを認めることです、
それゆえ、私達はその恵みによって真理を信じ、真理を行う者は、光の方におり、神様に導かれていけるのです。
そのように、日々、神様の導きを求め続け、神様の導きに応えて従って行く生き方を選び取っていきましょう。その最後には真理の光が待っているのです。